昭和42年8月17日 夜の御理解
神も喜び 氏子も立ち行き、金光大神をもの喜びじゃと仰るそういうおかげを頂かなければ、神様の喜んで下さるおかげ、同時に私共も立ち行くと云うこと。私どももおかげを頂かせてもらうということ。云うなら神も喜び氏子も喜び、しかもそれをお取次下さる金光大神をもの喜びじゃとおっしゃるようなおかげを頂かせて貰い、そういうおかげの頂ける道を教祖の神様は教えておって下さるのですね。
ところが、果してそういう様なおかげを受けておる人は実に少ないのです。どうぞ神様どうぞ神様とお取次頂いてお願いして助かると云うこと。お取次頂いてご無理なお願いをして、このご無理なお願いが通った時に私どもは立ち行く訳で、私共喜ぶ訳ですけれども、それは私は神様が喜んで下さると云うわけではないと思う。喜んでという時にはね、矢張り喜んでと云うことは、私共が進物をするようなもの、やはりのしを付けて差し上げる。向こうからやろうてなかばってん、無理を云うたから上げるというようなおかげじゃあいけないでしょう。それが皆さんならよいけれど、度重なりますと又無理を云うて来た。あんまり本当にじだんだ踏んで云うものだから、しょうなかと云うものだからしょうなかと云うてやるとじゃあ、やる方も喜びじゃあないでしょう。氏子立ち行きましても、それはいわゆる金光大神の教えて下さる道に基づいたおかげとは言えんのです。ですから、そのそういうようなおかげを頂くのは、どういうような信心をさせて頂いたらよいのか、どういうようなありかたにならせて頂いたらsぉういうことにくるのか、神も喜び私共も喜び、いわゆる私共も氏子も立ち行く。しかも金光大神をもの喜びじゃと仰るようなおかげになるには、どういう信心をさせてもらったらよいかと云うことを、寝ても覚めても明けても暮れてもそこんところを思い続けさせて貰い、そこんところを焦点としての信心、修行になって来ないと私は思うねえ。同じ修行でも本当の修行になってこないと私は思うですね。
神がのしを付けて下さる様なおかげ、そん時こそが神が喜んで下さる。それにはね、こういう信心せにゃいけんのですよ。下さるものは夏のお小袖ということを申しますね、下さるものならば、夏もお小袖、たとえば要らんものを下さっても、やはりそれを有難く頂くと云うことなんです。
夏はそんなに着物は要らん、けれども、小袖やろうと言われたら夏でもそれを有難く頂いておけばです、それが役に立つ。いいえ、こう暑かけん、その着物は要りません。それではほんな必要なものだけ下さいと言うたんじゃあおかげにならんと云うこと。
皆さんにとってもここんところをそう思い込ませて貰って、そうあらせて頂こうと言う修行とは、そこを精進することなんですよ。そこんところを皆さんおかげ頂いて行かねばなりませんね。
丁度十二日の日は私共隣接教会回りでございましたから、親先生、若先生、それを高橋さんが送って下さいまして、ずっと回って前の日もその前の日もやはり、御用に出てきておられました。続いておった。十二日のは実を云うたら、大変忙しい日で実は出て来られなかったんです、けれども、まああの人のことですからまあ、神様の事を先に神様を中心にと云う生き方から、内の事は云うならかなぐり捨ててから、出て来られていたのです。
十三日にはここの十三日会でございますけれど、いよいよ出て来られないと云う事情が、明日は親先生、十三日会でございますけれども、明日は大きな野球があります。平和台にお弁当が出される、それに沢山なお寿司を作らなければなりませんものですから、それも前の日から作っておく訳にもゆきませんから、ちょっとの時間に作らなければいけません。大変忙しい。しかも千二百からの弁当を作らなければならない。そりけん十三日は御無礼しようと思いますがそれでいいでしょうか。というわけで十二日の帰りがけに、そうな、そりゃ帰りがけにご無礼してもよか、来んでもよかけれどもほんのこつ云うと、十三日尚更出て来なければいかんばってんねと云うたら、「はい」その時にお伺いがございました。今夜帰って寿司の材料を集め、寿司を作るお届をしなければなりませんのだが、千二百作ると云うのですが作らせて貰ってよろしいでしょうか。作らせて頂くようお願いしようと云うて、内の方で千二百の寿司を作られた。お店の方が二人で作られた。高橋さんはこちらに出て来られた。自分は気が気じゃあないのですね。ところがその午後から電話が掛かった来たそれがそのこういうその二回の試合があるのがお天気がこんな風な訳ですから、朝から雨が降っていましたね。十三日会、だから一回になりました。それで半分の六百でよかちゅうてきました。それじゃあおかげじゃろう、したらそげんしなさい。先生よかろうじゃろうと云うて作っておりますとよというて。それならそうばってん、神様のおかげ、お許し頂いてから神様任せになってから作らせて頂いたのだから、それでは電話かけましょうと電話を掛けられたらまた一時間ばっかりしたら、又雨が降ってきた。先生もうあとになったら食べられんごつなる、今日は野球は取りやめになったと云うて来られた。だからその朝の御理解を頂いておられた方は、そこんところはよく分かるでしょうね。昨日高橋さんのいわば、千二百という弁当を作られた。けれどもそれがふいになるかも分からんけれども、それがどういうわけで何故おかげになるかと云うことが、朝の御理解で説いてある。口でこそ千二百ですけれども手数だけでもたいしたこと。金額としたところでやっぱり大変な金額なんですねえ。そこで、その先生私はそれをおかげで有難く頂きますけれども、それを作りました従業員もよい顔をしませんでしょう。第一母親が今日帰ったらどんな顔をするか分からん。まあちゃんとあとでお願いしとくけん帰りなさいと云うことでした。したら明くる日出て来てから、十四日に先生おかげ頂きました。さすが町ですねえ、野球が急に停止になった時に弁当余った。だから割引して貰うて出した訳ですねえ。ところがもう、千二百が弁当がまたたく間に、勿論支店の方が新天町にありますから、あちらが出した訳です。もうそれこそ飛ぶように売れて仕舞うたと云う訳です。お母さんや子供達、従業員もいわば・・?になったと云わんで済んだと云う様なおかげを頂いたと云うことであった。
それから昨日、今日と試合があった。昨日高橋さん前の日から来ています。十五日から来ています。それがその明日の試合にゃあ親先生、神様から千二百と頂いておりますけれども、先方では六百納めて呉と云うて来ております。ところが内では材料も全部手配してしまっておりますから、作るように云って来ました。強引に押し込む訳にはいかんのじゃが、どうしたらよいでしょうかと云うことでした。そんな時は強引に押し込まんでよかけんで、向こうが六百で云うなら六百納めときなさい、どんどん売れ出したら又持って来てくれというに違いないけんで、どんどん売れば願えれば同じじゃないですか。やあと心もとないわけですよね。作っているのは千二百、向こうの注文があってるのは六百。向こうは前の日のことがあったもんですから、そうそう損をしちゃならんと云う気持ちがあったんじゃないでしょうかね。ところが今朝から又明日は月次祭ですからお供えを持って必ず前日必ず出て見えます。見えました。先生おかげ頂きましてからもう、それこそ初め六百でしたけれども、すぐ電話掛かって来まして、あとどうぞと言うてから、あと六百売って仕舞うても足りませんでしたから、また少し追加をするくらいでございました。それをみんな聞きよってから、今日私は言おうとするところですたい、ねえ、神も喜び氏子も立ち行く、金光大神をもの喜びじゃという、一番前の千二百というのは、云うならばふいになった、けれどもお繰合わせを頂いて立ち行くだけは立ち行った。そこに神様の喜びは例えば、みすみすたとえばどうなるか分からん。こういう天候ではと云うても、神様任せにならせて頂けたと云うこと。いわゆる夏のお小袖である。そういうおかげは要らんのだけれども、神様が云うて下さるから合掌して受けた、元気な心で受けたと云うこと。ねえ、皆さんこのへんのところを、折角稽古するなら稽古しなければいかんのですよ。先程高芝さんが一家中でやって見えました。孫を連れて来たからそれがもう、ずーっとしてから機嫌の悪か顔をしてるのですよ、孫が。私があそこにあった食べ物を握らせましたら、にこっと笑うですもんね。高芝さんに言うことですよね。だれでんこげんこげなことなかじゃろうかね。自分のよか思いどうりの時にはこっとするけれども、でなかったらぶーっと腹かいてからもう思いどうりにならんときにはもういよいよ腹かく、というほどこれが普通の信心の、云うなら信心の浅い者の状態じゃあなかろうかねというて話しましたことでございますけれども、信心の稽古をさせて頂くと云うことはそこなんです。一日お参りさせて貰う。一日信心の稽古をさせて貰う。そして降るとか照るとか、得とか損するとかそんなことは問題じゃない。例えば、損したなら損したこと、いやもうそんなことは嫌なんだけれど、神様の下さるものに間違いないから、夏のお小袖として頂かねばいけんのだと。そこには例えば、昨日のいわば向こうが六百云いよるからもうそれ以上損出来んと六百作っておいたら、六百のだけのおかげしか頂けんのだけれど、しかも大変喜ばれてから作ったものは全部持ってきて下さいと言った様なおかげになったところなんかは、もう神様はそこにはのしを付けて下さるものを感じるでしょうがねえ。いわゆる金光大神、ね、私も嬉しいです、ね。よういうおかげを頂くこと、金光大神、私も本当にこういう難しいことで神様任せになってくれる。しかも悪い顔をしない。只問題は私は別ですけれども、家内やら又信心の薄い母親やらがどんな顔をするじゃろうかと、そういうところにちょっと引っかかりがございましたけれども、よしどういう顔をされても修行として受けて行きゃあいいのである。よか神様にお願いしておくから、帰ってなさいと言うて、その日は遅うまでおりました。そしたら帰ったら店の方達がみんな手配してから、そういう売り出しをやってるわけなんです、それでみんな全部売れておったと云うことなんです。立ち入った、そういう私はおかげを頂かせて貰う。次に神様がのしを付けて下さる様なおかげと云うものが待っている、ね。日日自然成行きの働きの中に自分のいいことばかりないのです。けれども、その事をいやとかお粗末にせずに、そこんところを実意丁寧に取り組んでそれを頂いていくという信心。私は金光様の信心とは信心とはですね、苦しいが悲しいときの神頼みとか、自分がどんこんでげん時にお願いした時、お願いしたけんで、ようなったとか儲けたと云うことだけじゃないって、金光様の信心は。
本当のおかげと云うのは神様が何時も絶えず私共にのしを付けて下さるようなおかげを、しかも限りなく下さることの出来る様な人物を作ること。心を作ること。今朝から毎朝江口の堤さんがああやって参って來るでしょう。清さんが最後まで残って御理解を頂いて帰られてから、先生、昨日こういうおかげを頂きました。村内の人が清さんに、堤さん、地獄極楽ちゅうもんはあの世で無くて、この世にあるのばいと、みんなで云うことです。したら堤さん私もして言うたか分からん云うんです。そしたら私がことを申しました。そげなこつじゃなかばい。地獄極楽はねえ、あの世にはないけれどもこの世にあると云うようなことではなく、本当云うたら、地獄極楽は自分の心の中にあるとばいち言うたち。たったそんだけ言うて仕舞うてから、自分あきれてこたえんだった。あんなこと自分で自分の心をさいなまされるように、自分で苦しんでいる。いや金があっても、物があっても健康であっても、様々な難儀なこと苦しんでる人は沢山有るから、それだけでは極楽じゃあない。あの人こそこの世の極楽じゃろうと言われている人でも、心の中を尋ねてみたところが、それこそ吾が心が責めさいなんでおると云うことがある。人から見たら差ほどにもいわば大した家にも住んじゃござらんけれども、大した財産もないけれども、何時も心の中に有難いと思われる。成程地獄極楽は自分の心の中にあるんだと、そういうわが心の中にです、いわゆる極楽を開いて行くということに精進させて貰うと云うこと。それはどういう事かと云うと、自分のいやな思い、例えば損するようなことでも神様の下さるものならば、夏のお小袖として有難く頂くと云うときにです、ほんとに馬鹿らしかった。神様任せになった。親先生任せになった。千二百も損になったと云うたんじゃあ助かっていない。
神様の云うて下さることであるから、これは神様の御都合に違いないと有難く頂ける心こそが極楽、ね。そこを頂き抜かせて頂いてから、神様が本当にのしを付けて下さるようなおかげを頂かせて頂けれる土台を作ることに精進しなきゃあ、だからここには信心の稽古に來るところとおっしゃるが、信心の稽古とはそういう稽古をすることなのだ。自分の都合のよかことだけはもらう、都合の悪いものは要らん。これでは何時まで経ってもおかげは頂かれん。それこそご無理を言うてお願いさせて貰い、自分の思う様になった時だけにこっとするけど、思うようにならないと、腹かいたり、もう神様の力はないぞと言うたり、信心を止めたりする人があるのですから、金光様の御信心はそういうものではない。ということを分からなければ、そして神も喜び氏子も立ち行き金光大神をも喜びじゃと仰るような、そういうおかげを頂かにゃいけんです。そういう信心の一つの願い、理想と云うものを願いとしての信心になって行かなければいけませんですね。 どうぞ。